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今、内臓と音の関係を調べている。
調べているといっても自分の体感を通じて調べている。
何事も機械で計測するようになると、体感は「あやふや」なものと考え、扱う人が多くなるが、それこそ現代教育が作り出した病巣である。
体感に耳を澄まし、体感を使ってやるようになると、じつにいろいろなことを教えてくれるし、豊かな世界が開けてくる。
僕はいまそれを世の中で流通しているものと全く別の体系の原理として定着させようとしている。
それが人類を幸せにすると思うから。

そんなこともあり、昨日は赤松林太郎さんの恒例の公開録音コンサートに行ってきた。
「内臓と音」という僕としては純粋なテーマを持っていったわけだが、音楽の聴衆としては、純粋どころか不純、異端であるに違いない。
申し訳ない。

今回の公開録音に対して、赤松さんは事前にこんなことを書いている。

「モーツァルトのピアノ協奏曲を弾く時、本番前の一週間はモーツァルト以降の作品を練習しないようにしています。今回も同様、タッチを含めた身体の感覚を徹底的にリセットして、18世紀まで戻します」

こういう真摯な態度であるから、聴くほうも身が引き締まる。本当は斎戒沐浴して伺いたいくらいだ。
しかし、実際はいつも日常のだらしない気分と身体のまま伺って、超絶技巧の音のシャワーで禊するという具合になる。

赤松さんは一流のピアニストであるだけでなく、6カ国語に通じ、喧嘩は強いし、頭もいい、文章もうまいという全方位的な超人だけれども、その紹介はおく。

最初はチマローザのソナタ。
これは楽譜がいくつもあり、曲番すらバラついているらしい。それを赤松さんが比較対象、吟味評価、構成して演奏する。
一曲ずつはごく短いものだ。

最初の数曲は小料理屋の付きだしのように軽快な曲。
肺のあたりをつまさき立ってはねていくような感じ。バレエもそうだが、西洋人には地上の引力がないかのように身軽でいたいという志向があるようだ。
だからといって空中に浮遊するわけではない。
地上に降りることがわかっているのになぜ彼らははねるのか。

チマローザの後半以降はもっと多様だが、短く内臓的に聴くのは追いつかなかった。
短いだけに「人間的苦悩」というようなテーマにも深入りしない。
これらの楽曲は時代的に宮廷での「ちょっとしたお楽しみ」というようなものだったのか。

第二部はモーツアルト。
サリエーリの歌劇「ヴェネツィアの定期市」のアリア「わがいとしのアドーネ」による6つの変奏曲。

つまり、これはモーツァルトの曲なのだろう……。
これは頭部にくる。脳の内外にさまざまなイメージが明滅する。

そのあと印象はごちゃまぜになってしまったが、赤松さんが「モーツァルトの本質はデーモニッシュ」と紹介した『幻想曲ニ単調』は心臓と胃のあたりがぎゅっと締まった。

音程は高いほど単純に身体の上部に響く。
波長の短い音を人がなぜ「高い」音と呼ぶか。
それはこの体感に結びついている。
後の食事の席で赤松さんに言ったら「そうです」と短く同意された。

モーツァルトのこの曲はちょうど心臓から胃のあたりにメインの音があり、そこから腸や肺に運動していく。

内臓は基本的に長調の音が好きだ。
長調の音では拡張する。
短調では収縮する。

この収縮と拡張が律動や解放感と結びついて行く。

音の波動の連鎖がなんらかの情動を生み出すのは、感情に直接的な相似形を生み出すのではなく、内臓への共鳴がさまざまな感情の記憶を生成する、というのが僕の観察だ。

この音楽理論は僕は昨日発見・確認したのだが、誰か言った人がいるのかな。
とても単純なことだから、誰かが発見していて不思議はない。

身体の話をしていたら赤松さんが
「村松さん、今日のコンサートで僕がいちばん疲れた部分はどこだと思います?」と聞いて来た。
「もちろん全体に疲れるのですが、それだけでなく今日は身体の一部をすごく使ったのです」
んー。聴いたほうとそれは一致しているのか? わからない。

「眼ですよ。どんなに小さな音も粒だちをつぶしたり曖昧にしたくない。それで一音も逃すまいと眼を凝らしていたら眼がものすごく疲れたのです」
音の粒を見る。文字通り見ている。すごい。

内臓で音を聴く聴衆がいて、音を眼を凝らして見るピアニストがいる。
そのように体感が拡張された世界はあなたのすぐ隣にあるのです。

内臓でピアノを聴く/赤松林太郎さんの”Cimarosa and Mozart” on Public Recording.

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