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演劇評【ファームレット】ファーム下北沢楽園 12/11〜12/15

真夏の伊豆大島で地面に横たわる鳥の死骸を見たことがある。
そこには蟻やさまざまな虫がたかり、炎暑の下で腐敗が始まっていた。
アスファルトやマンションの一室で死ねば、人の死体は汚物であるが、ここでは一週間と立たずに跡形もなく土に還れるのではないか。
そのような葬られ方なら死はさほど怖くなかった。

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日本の芝居がかつてないほどの至近距離にシェィクスピアをとらえた。
そう感じた。同格はあるだろうが、これ以上はない。つまりベストだということだ。

花房徹がハムレットを演出すると聞いたとき、一抹の不安があった。
シェイクスピアの日本語に翻訳された戯曲を読んでも、大げさで華美な台詞を日本人がどのように発声すれば、納得がいくか見当がつかなかったからだ。

一方で、映画に出てくるグローブ座でのシェイクスピア芝居は、猥雑で教養もない階級の庶民が集まって、ちょっとした台詞の抑揚にドカンドカンと反応している。
この落差はなんだろう、というあたり、興味は強くあるが僕にはまだ適切な答がなかった。

花房さんの演出力はかねて尊敬するところであるが、シェイクスピアまで解体することができるのか、疑っていたのである。

シェイクスピアは、日本の演劇界では生きてはいない。死骸である。大きな死骸でとりつきがいはある。
しかし、誰もが食べ残して成仏させていないのではないか。

しかし、花房演出では見事な解体を見た。その世界には地中のミミズや微生物までいて、見事にシェイクスピアを土に還した。
シェイクスピアは少しも難物ではなかった。
虫たちや腐敗菌にとって、獲物が小鳥だろうが、熊だろうが、本質的な差異はないのだ。
分解されれば、それは地中の養分となって新たに再生するだろう。

花房さんは、あまり理屈っぽい話をしない。
ただいつも動き出すヒント、空中から演劇性をひねりだすヒントを探している。

花房演出はいつも因数分解をする。演劇的因数分解。一つの凝り固まったものが、分解された要素になって自由に動き出す。
あらゆるものがそのチャンスを待っている。
花房さんはそこに軽く触れる。
戯曲が文学であり続ける場所は頑な顔をしている。
そういうところに指を触れるとあっという間に表情がゆるみ、見えない花が開いて行く。

大げさな物質的な仕掛けは何もない舞台だが、見る人が見れば、そこは花園だ。

花房さんは現場のゲネプロでいくつも演出を変えた。劇場の制約もまたひとつひとつ演劇のチャンスに変わる。
俳優の演技の質の違いや、癖、限界、それもそのままに花になっていく。

すべては見えない象徴レベルの操作なのだ。
象徴のエネルギーを可視化したものが随所にでてくるダンスだ。
ダンスを織り込んだのではなく、演劇の一部として機能している。
技術的に高度であるか、独立して鑑賞に耐えうるものであるか、というようなことはテーマにはならない。
象徴というダンス本来のあり方の見本のような作り方、使い方だ。

有名なシェイクスピアとはなんぞや?
演劇とはなんぞや?
ダンスとはなんぞや?
と興味を持っている人は絶対みるべきだ。

面白い演劇と単純に出会いたい人も、ぜひみるべきだ。
人気劇団を追いかけている人も、合間でちょっとした拾い物をしてみるべきだ。
演劇は苦手で、何年も見ていない人も試すべきだ。
彼女とのデートに新しい刺激を導入したい人にもとてもいい。

僕の書くことは難しいかもしれないが、楽園の客席に座り花の咲き乱れる舞台を見ることはとても簡単だ。
いますぐ予約を。

http://www.yakusya.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1670

【劇評】花房徹の演出マジック