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沖縄から帰って来ました。
書ききれないほど収穫の多い旅でした。
その中から久高島の話を書きましょう。

久高島は、祖神アマミキヨが最初に降り立ち国造りを始めた地と言われています。
つまり琉球はここから始まったのです。
五穀の種も黄金の壷に入って、イシキ浜に流れ着いたのです。

つまり琉球の国産みの神話がこのコンパクトな島に凝縮されているのです。
どれくらいコンパクトかというと、自転車を借りてこの細長い島を縦断しても片道30分もかからないのではないでしょうか。
ここに有名な、今は行われていないイザイホーを初めとする数々のご神事が織り込まれているのです。

沖縄でユタというシャーマンの存在が有名ですが、ここでは、ノロが神女です。
ノロは国家に認められ配置されたシャーマンです。琉球という国は神事が国の形に組み込まれていたようです。
久高島の中の神様には、そういう折り目正しさ、格の高さを感じました。

最高の霊的スポット、フボー(クボー)ウタキは、立ち入り禁止ですが、その周囲にも濃厚に神的な気配がします。立ち入っても物質的には大したものはありません。それは対岸の斎場御嶽を見てきたからわかります。

ただ象徴的な施設がセットしてあって、それが機能する目に見えない仕組みが長い歴史の中で使い込まれて、強い力を持っているのです。

僕はこの霊地でSBAをして来ました。
もちろん神様は病気になりませんが、神様と人為との接点にいろいろチリ、ホコリが溜まっていることがあり、SBAはちょっとした掃除になるのです。

僕の感覚では目に見えない神女たちがざわざわと集まってきて、たいへんな歓迎を受けました。
神女といっても、年若い美女ではなく、年齢不詳のどちらかというと老女ですけれども、集まってウキウキとしていました。
僕の細胞も粒立つような感じです。

そんなものは信じない、妄想ではないか、と思う人もいるのではないかと思うのですが。

僕は感覚で何かを受け取った、それは確かです。くっきりした感覚ではなく、うっすらと分かるのです。たとえば、絵画を見て何かを感じる、そういうときの「何か」に似ています。
だから、ふだん絵画や音楽に「何か」を感じる人のほうが、そのささやかな気配に敏感でしょう。

そのように「受信」したあと、僕はこれは何だろうと感じたものを形にしようとします。いわばこれは「投影」作業です。
自分からイマジネーションを使うのです。

何か小さな感動があったときに、そこから絵を描き始めたり、俳句を作ったり、歌を歌い出したりするように、この世のものではないものにこの世のものに近い形であれば何だろう、と問いかけるのです。

そうしたときに、僕はたくさんの神女たちが集まってくれたと感じたのです。

それこそが妄想だという人もいるかもしれませんが、妄想というのは「妄り(みだり)に想う」ということで、自分でコントロールができず、エゴをいたずらに肥大させてしまうようなものを言うのです。

SBAでも、象徴を扱うのですが、受信も投影も意識的に行います。
受信と投影は呼吸の吸う、吐くと同様に一体のものです。

神事(かみごと)というのは、この投影の部分を言いませんね。
「自分は確かに見た」と言った者勝ちのようなところがあります。そういう人は「自分の見たものは100%間違いない」というわけです。
しかし、神様は100%でも、見る人は人間ですから、間違うこともあります。実際に神様の世界を垣間見た人が、次には自分の願望と混ざったニセモノを見ることもあります。

僕はこのような100%は必要ないと考えています。
神様が100%の正しさをただ教えたいなら、そのように万人に示せばいいからです。
特定の人に特権的に教える必要はありません。
もし、神様の世界を物質のようにくっきり見せたいのであれば、神様はそのようにしたでしょう。
でも、神様は人が迷うように作られた。
迷う中からよいものを自分でつかみとるように作ったのです。

特定の人だけが神様のメッセージを受け取るという構造は、必ず腐敗していくのです。カルト宗教のようにその人のフォロワーは、ただその人の言葉を鵜呑みにして自分の判断を忘れるようになっていくのです。

いま、占いにはまる人がたいへん多いです。それもインターネットでは、1分間200円くらいのものがザラにあります。
1時間話すと1万円です。こういう占い師に連日電話をする依存症のような人がたくさんいます。

人に占ってもらう、ということは自分の感覚を失うことなのです。
自分の機能を使わずに人の機能に頼っていると退化します。
退化しきってしまうと、占い師の言葉なしでは、自分の方向が全くわからなくなってしまいます。
これはある種の廃人です。

普通に占いを批判する場合、「理性的判断」が失われることを批判するかもしれませんが、僕はそれよりも神様と自分で対話する能力を失う、ということを批判しているのです。

僕のいう神様とは、まず自然です。人の中の自然。言葉以前のもの。意味以前、合理以前のもの。それは人の無意識領域を含む「私」の中にあるものなのです。
それとよく対話しなければいけません。

自分自身との対話は、言葉でするのではないのですよ。
なぜなら、自分の大部分は「言葉以前のもの」でできているからです。
言葉がないものとどう対話するのか。
それは宿題にしましょう。
もう十分に長く理屈っぽくなってきましたからね。

ただ占いに頼れば、自分の言葉の領域だけでこんがらかっていく危険が高いということです。

それで僕はこんなふうに神様とつきあっているという話をしてみました。
皆さんも自分流に神様とお話してください。

久高島の神女たち(神様とのつきあい方)

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