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さて、いよいよ肝臓が不調のときにとったわたしの対策を書きます。

自分で治りました。

かつては民間に「こういうときはこうする」という知恵がいろいろあったのです。

それが「非科学的だ」「素人判断で何かあったどうする?」という言い方で排斥されて、国民は現代医学に頼るしか手段や発想がなくなりました。

また健康保険料という形で別に徴収されて見かけの支払いが安くなっていることで、医療に対する消費者意識もたいへん低いものになっています。

保険料払っていて安いからいいや、という気持ちになるのです。

この現代医学依存がかなり危険な領域に入っているとわたしは思います。

どんなものでも、選択でなく、独占になれば傲慢なところが出てくるのです。

個人でも自分の身体を守るいろいろな手段があるよ、ということが言いたくてこの原稿を書いています。

10以上のことをあれこれやりました。

その中の主立ったものを書いてみます。

たくさんの対策の中で、どれが効果があったのかは、こうではないか、という心証はあります。

正確なことはわかりませんが、なるべく解説してみます。

■ヒーリングを依頼のこと

最初に消化能力が大幅に低下したときは、信頼するヒーラーさんに遠隔の施術を依頼しました。

ふだんは頼みません。

初めてのことで、どんなものか興味があったのです。

施術は夜11時からです。

少し前からふとんに横になって、その時間を待ちます。

ああ、なんかリラックスして気持ちいいかな、してくれているなあ、と感じました。

でも気のせいと言われればわからない微細なものです。

2晩お願いしました。

症状がどれくらい減ったかは測れません。

きれいさっぱり、びっくりするほどなくなった、ということは残念ながらありませんでした。

評価するのは難しいことです。

世間の人はこれでは効かなかったと思うでしょう。

シンクロームをしていても、それがつらいところです。

身体に蓄積している要因が、エベレストの山のような高さだったら、10メートルや20メートル低くなっても気づきません。

しかし、100日続ければ1,000メートル低くなります。

たまたま一回で自覚できるほどの変化がでる場合もあるし、何回かかかる場合もあります。

ある程度時間がかかると自然治癒と見分けがつきにくくなります。

効果があったのではなくて、何もしなくても治ったのではないか、という思いが出て来ますからね。

現代医学では、患者は治らなくても薬を飲み続けてくれます。

何年も何十年も飲んでいる人がいます。

治らなければ治らないほど飲んでくれるわけです。

ヒーリングやシンクロームは、もっと早く結果を出さなければ、「なんだ効かない」と簡単に信用されなくなって、依頼もなくなります。

今回は最終的にはよくなったので、このヒーリングについても働きがあったかもしれないと感じています。

身体は理不尽ではありません。

身体はある次元では閉じたシステムなので、完全に因果関係が現れます。

完全に論理的です。

論理的ですが、その論理は読み取りにくいものです。

身体のことは「こうだからこうだ」という因果関係の白黒をつけにくいのです。

1つの現象にもいろいろな原因が考えられます。

調子が悪くなった原因は何か、調子がよくなった原因は何か。

たった1つの原因か複合的なものか。

科学実験では、2つの同じ状態のモノを用意して、1つにはある働きかけをし、1つは何もしない状態に置いておき、その後の変化・差異を観察するわけです。

しかし、二人の他人の身体は同一ではありません。

また同じ人でも、5分後にはまったく違う身体です。

とくに心理的なショックを受けたとき、怒ったときなどは瞬時にガラッと変わってしまいます。

ある薬品を飲んだときと、飲まないときを同じ身体で比べることは絶対にできません。

飲んだら飲んだ身体になって、飲まなかったときの身体は二度と再現できません。

つまり実験はできないのです。

医薬品開発ではたぶん「統計学的な手法」なるものを使うのだと思いますが、その実験現場で「ある結果を出したい」、という思惑があるときにどれほど信用できるのか、よくわかりません。その思惑も含めての環境が「実験」ですからね。

世の中に組み込まれた科学がまずい結果は伏せてしまうことは目の当たりにしている通りです。

わたしは自分の身体については「非科学的」方法によって、何が有効かを判断します。

使うのは自分の体感です。

いつも身体と対話し、感覚に尋ねながら考えます。

非科学的というのは、それが数値化できないからです。

これは「10の痛みだ」「これは8だ」と仮に数値化しても、それは主観です。

科学は主観に価値を認めないでしょう。

でも、わたしはそれを使います。

複数の原因を心にとめて観察します。

ただし、わたしは少しも敏感ではありません。

良質なサプリメントはときどき試すことがありますが、「効いた!」というはっきりした心証を持つことは稀です。

感覚は明瞭な輪郭を持たず、ぼやっとしています。

だから、なにごとも判断をくだすまでに時間がかかります。

流れる時間の中で、体調も変わり、気分も変わる。

その中でも観察を続けます。

そうすると、何が自分にとって好ましいものか、何が身体に悪いか、なんとなくわかってくるのです。

こういう曖昧な複数のものを相手にする論理は、ひょっとすると世の中に他にないものかもしれません。

複数の曖昧なものの中で考えて行く論理。感覚を扱う論理。

主観を時間のフィルターをかけることによって、有用に使えるように洗練させていくのです。

同じことを医薬品で考えてみましょう。

解熱剤、鎮痛剤、降圧剤といったもの。

それは熱が下がる、痛みがなくなる、血圧が下がる、という形で効果の白黒がはっきりします。

数値で表現することもできます。

それを持って人々は、効果があると考えます。

そして、科学的な裏付けがあると安心します。

しかし、身体が発熱しようとしたときに解熱するとどのような影響があるかは考えません。

原因が取り除かれていないのに痛みを薬で取り除くとどうなるか、ということは考えません。

身体が血圧を上げようとしているのに、薬剤で下げることの意味は考えません。

科学というお札が貼ってあると、考えることも自分で感じることもやめてしまうのです。

抗がん剤が無効であることが米国で証明されても、医学に対する信用は揺らぎません。

子宮頸がんワクチンなどはほとんど犯罪だと思いますが、それでも一部の人しか反応しません。

死亡例も…副作用の報告が相次ぐ子宮頸がんワクチン

http://matome.naver.jp/odai/2136870343676389801

これが日本の科学的というものです。

研究室で科学者たちが証明した、といえば、自分で考えず、目の前の現実を見ない人々は科学を信仰する。

自分の感覚より医者がいうことを信用する。

それが日本の科学的態度です。

僕は感覚を高い優先順位におきます。

この原稿は多くの人に参考になるように、根底にある発想まで書いています。

さて、対策の話に戻りましょう。

 

 

(続く)

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